前から東京で集合住宅など設計していると、23区に住宅を建てるのになんでこんなに防火が厳しいの?と聞かれることが多いので動画作りました。当初考えていた構成は戦後を中心に語ろうと考えていましたが、実際考えてみると江戸時代から語らないと意味もなく・・・。
防火対策の厳しさは江戸時代の話からスタートしています。明歴の大火を始めとして、江戸全体が焼土と化す大火が何回も起こり、幕府が力を入れざるを得なかったのです。江戸時代から様々な工夫が為されていました。
江戸時代の大火については、下記の本を参照しました。東日本大震災を経緯に江戸の災害史を見直したこの本は、緑地帯や道を広げたりするハードによる対策だけでなく、ソフトの変化、幕府や藩、地域社会、家の各レベルで人々が防災に取り組んだ意識の変化について語っています。
江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ 倉地克直著
長い江戸時代が終わり、明治維新が起こってここで江戸の町が大改造されます。銀座の煉瓦街等も出来て防火の考え方も変わってきます。
明治維新の頃の江戸の変貌についてはこちらの本を参考にしました。廃藩置県により参勤交代が無くなり、江戸の藩邸が不要になる。そこに明治政府が入ってくる。なぜ首都が江戸になったか、江戸から帝都東京への変化を書いた本です。
都市空間の明治維新 松山恵著
明治政府になっても、そこで江戸の街並みが全て変わったわけではありません。江戸との連続性で東京は拡大していきます。
明治憲法が制定されたのは1889年。そして法整備が進み、建築の基本的な考え方に関する法律「市街地建築物法」「都市計画法」が制定されたのは1919年です。
「市街地建築物法」の原文と現代語訳については、足利大学の刑部研究室にまとめられています。→「市街地建築物法」足利大学刑部研究室HP
ただ、その後防災に対する考え方ががらりと変わる大災害が起こります。1923年9月1日、関東大震災が起こります。この震災で東京は灰燼となります。
関東大震災から100周年を機に、日経ビジュアルデータ作成のHPです。延焼が46時間で東京全体に広がったことを示しています。
江戸から連続して発展していた東京は、関東大震災からの帝都復興計画で大きな変化をすることになります。
その後、関東大震災の復興が進んでいたのに、戦争に突入し東京と日本が空襲で灰燼と化します。
今回参照したNHKアーカイブの資料です。1945年3月10日の東京大空襲でどれだけ東京とくに下町が焼け野原になったかわかります。
1945年8月15日の終戦後、すまいも無くなった日本は、まずは住宅、そして都市の復興にまい進します。戦後復興のスタートと、1950年に制定された建築基準法について語っています。
「建築基準法」と、1919年に出来た「市街地建築物法」の大きな違いは、後者は市街地に限定されているのに対して、前者は全国に網をかけているということです。空襲の被害は全国に及び、戦災復興を急ピッチで進めなければいけないのがその理由です。
今回初めて「市街地建築物法」を読みましたが今の「建築基準法」のベースに予想以上になっていて驚きました。それが今回の動画を作った大きな原因でもあります。迅速な戦後復興が可能だったのは戦前に作ったこの法律があったことに起因しているように思います。
このような歴史的経緯により、東京の住宅は防火性能と耐震性能が厳しく求められれるものに変わっていったのですが、それは殆ど1950年には方向づけられていたのです。東京は関東大震災と東京大空襲の影響が強く、用途地域や防火地域等、まちとしてのルール付けはそこに起因しているのが大きいです。防火地域の設定もこの時代の被害から導き出されています。
追記;道路計画も将来を見越してつくられましたが、予算もなく、100m道路は結局名古屋と広島にしか実現しませんでした。先日、丹下健三の広島ピースセンターについて語りましたが、ここで協力したイサム・ノグチが、平和大橋の欄干デザインをやっています。
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