旧香川県立体育館の保存が話題になっている建築家丹下健三、日本建築の巨匠です。
先日Xで8月6日に広島ピースセンターの成立の歴史とかについてポストしたら少しバズったので、ピースセンターをテコにもう一度丹下健三さんの建築と都市デザインを考え直してみたいと思い、YouTube撮りました。

Part1-丹下健三前史と広島

広島ピースセンター
平和記念公園ができるまで

Part2-広島ピースセンター設計とイサム・ノグチ

丹下健三に関するYouTube第二弾です。
広島ピースセンターのコンペと設計過程を中心に、当時の建築思潮と併せて語っています。特に原爆投下の碑をつくる可能性があったイサム・ノグチとの関係について注目しました。

イサム・ノグチ庭園美術館

広島平和記念公園にはイサム・ノグチの原爆投下に関する碑をつくる計画がありましたが、それが撤回されたことについて、イサム・ノグチの前半生と合わせて語っています。丹下健三の設計経緯と重ね合わせると、いろいろと見えてくるものが多いです。

和泉石材

イサム・ノグチさんの協働パートナー、香川県庵治にある和泉石材の和泉正敏さんは私の知り合いのアーティスト、川島孟さんのご紹介で出会いました。石のアーティストというべき方で、例の有名な石のアトリエを一緒に見せて頂きました。併せてそのあたりの話も。

和泉正敏さん
「美術学校へ行っていないのがいい。英語ができないのがいい。石が好きなのが一番いい。一緒に石の勉強をしましょう」イサム・ノグチが和泉正敏を誘った台詞です。(T . T)

その後東京オペラシティの設計で柳沢孝彦さんの提案により、和泉石材さんの石を大量に使うことになり、設計チームの一員としてまた和泉正敏と仕事場で会うことに…。新国立劇場と合わせ、和泉石材の石が大量に使われています。

ガレリア部分にも和泉石材の庵治石がふんだんに使われている。

Part3-ピースセンター竣工その後

丹下健三に関するYouTube第三弾です。広島ピースセンターのその後について、白井晟一の原爆堂計画から、その後の影響。
谷口吉生の広島清掃工場にまで貫かれている軸線。
瀬戸内海に散在する丹下健三建築。
さらに、その後の影響まで語っています。

ここでポイントなのが、ピースセンターの竣工は1955年だったのですが、原爆ドームは住民感情もあり残すことが決まったのは1967年、竣工の12年後でした。その経緯は中国新聞の「原爆ドームの歴史」にまとめられています。

広島平和記念公園の計画自体が原爆ドーム中心の構成なので、この丹下健三の設計自体が原爆ドームを残すことを後押ししたともいえるでしょう。

いま、旧香川県立体育館の保存が問題となっていますが、広島ピースセンターや平和記念公園、倉敷市庁舎、香川県庁舎も含めて、瀬戸内海周辺には丹下健三の良い建物が沢山あります。

旧香川県立体育館も残すことで、これらを結びネットワークを作り、世界遺産登録を目指すなどにより、新しい文化遺産、観光資源になるのではないでしょうか?